慢性疼痛を抱える患者から「動くと痛いのに、なぜ運動しなければならないのですか」と問われたとき、「だからこそ動いてください」という答えをエビデンスに基づいて説明できる治療家はどれほどいるでしょうか。適度な運動が痛みを和らげるという経験的知識は広く普及していますが、その背後にある神経生物学的メカニズムは、多くの臨床家にとって依然として十分に理解されていないのが現状です。「運動誘発性鎮痛(Exercise-Induced Hypoalgesia:EIH)」とは、運動によって脳・脊髄に本来備わった内因性鎮痛回路が活性化し、痛覚閾値が一時的に上昇する現象を指します。内因性オピオイド、内因性カンナビノイド、そして下行性疼痛抑制系という少なくとも三つの神経化学的経路がこの現象に関与しており、それぞれが独立した役割を担いながら協調して鎮痛効果を生み出しています。本稿では、この分野の主要研究の方法・結果・限界を丁寧に読み解きながら、治療家として「動かす」という処方箋を科学的に語るための知識基盤を構築します。
EIHとは何か――定義と歴史的背景
「運動が痛みを和らげる」という経験的観察は古代ギリシャの医学文献にも記録されていますが、これを定量的・実験的に研究する枠組みが整ったのは20世紀後半のことです。現代の研究においてEIHは、有酸素運動・筋力トレーニング・等尺性収縮などの身体活動の最中またはその直後に、圧力痛覚閾値(Pressure Pain Threshold:PPT)・熱痛覚閾値・電気刺激痛覚閾値などの客観的指標が一時的に上昇し、疼痛知覚が軽減する現象として定義されています。
この領域を体系的に整理した記念碑的レビューが、Koltyn(2000年、Sports Medicine)による「Exercise-induced hypoalgesia and intensity of exercise」です。Koltynはそれ以前の実験的研究を網羅的にレビューし、EIHが持つ二つの重要な特性を明示しました。
第一の特性は**全身性(generalized nature)**です。運動後の痛覚閾値上昇は、鍛えた筋肉の部位だけでなく、直接的に運動に参加していない身体部位においても認められることが複数の研究で示されていました。例えば、自転車エルゴメーターで下肢の有酸素運動を行っても、前腕や指の圧力痛覚閾値が上昇するという現象が記録されています。この全身性は、EIHが末梢の局所メカニズム(筋ポンプによる循環改善や局所代謝物の希釈など)だけでは説明できないことを強く示唆しており、中枢神経系が主要な役割を担っていることの根拠となっています。
第二の特性は**強度依存性(intensity dependence)**です。Koltynは当時の研究データから、低強度の運動(最大酸素摂取量の50%未満程度)よりも中〜高強度の運動(最大酸素摂取量の60〜75%以上)のほうが、より大きな鎮痛効果を生む傾向があると報告しました。これはのちのメタ解析でも概ね支持されることになりますが、慢性疼痛患者においては高強度運動が逆に痛みの増悪につながる可能性もあることが後の研究で明らかとなり、「すべての患者に高強度が最適」という単純化は慎むべきとされています。
EIHの時間的プロフィールも臨床的に重要です。中〜高強度の有酸素運動であれば、運動終了後おおむね5〜15分以内に鎮痛効果が最大となり、その後30分〜1時間程度で基線水準に戻ることが多いと報告されています。一方、等尺性収縮(例:壁への押し付け、スクワット姿勢の保持)では運動中からすでに著明な鎮痛が生じ、やや異なる時間プロフィールを示します。この時間的差異が、有酸素運動依存性のオピオイド経路と等尺性収縮に関与する別のメカニズムの違いを反映している可能性があることも、Koltynのレビューは示唆しています。
Koltynのレビュー(2000年)が発表されて以降、EIH研究は急速に進展しました。当初は「運動後に気分が良くなるから痛みを感じにくいだけではないか」という心理社会的要因への懐疑論もありましたが、その後の研究によって、客観的な痛覚閾値測定における上昇が繰り返し確認され、EIHが実在する生理学的現象であるという認識が確立されていきました。これらの変化が被験者の主観的な気分変化とは独立して生じることが示されたことも、EIHを純粋に中枢・末梢神経系の生物学的現象として位置づける重要な根拠となっています。
図1: 下行性疼痛抑制系の神経経路
重要なのは、この下行性抑制系が一方向的な鎮痛装置ではなく、痛みを増幅する「On細胞」と痛みを抑制する「Off細胞」の双方向制御で成り立っているという点です。EIHが生じる際には、このバランスが抑制優位に傾くと考えられていますが、そのメカニズムは複合的で、単一の神経回路では説明できません。前帯状皮質(ACC)から中脳水道周囲灰白質(PAG)、さらに延髄腹内側部(RVM)を経て脊髄後角の介在ニューロンを抑制するという下行路がこの系の中心をなし、内因性オピオイドとカンナビノイドがともに作用する受容体がこの経路上に豊富に発現しています。
内因性オピオイド系:「ランナーズハイ」の神経化学
EIHを語るうえで最も歴史の長い仮説が、内因性オピオイド系の関与です。1970年代に脳内のモルヒネ受容体(オピオイド受容体)が発見され、続いてβ-エンドルフィン・メチオニン-エンケファリン・ダイノルフィンなどの内因性リガンドが同定されました。これらは大きく三種類のオピオイド受容体——μ(ミュー)、δ(デルタ)、κ(カッパ)——に結合し、強力な鎮痛を引き起こします。μ受容体は特にPAG・RVM・脊髄後角に高密度で発現しており、下行性疼痛抑制系の主要な制御因子として機能します。細胞内ではGiタンパク質との共役を介してアデニル酸シクラーゼが抑制され、cAMPが低下し、K⁺チャネルの開口(膜の過分極)とCa²⁺チャネルの閉鎖によってニューロンの発火が抑制されます。この分子カスケードが侵害性信号の伝達を遮断することで鎮痛が実現されます。
「ランナーズハイ(runner's high)」とオピオイドの関係を初めて実験的に示したのが、Janal、Colt、Clark、Glusmanら(1984年、Pain)の研究です。この研究ではマラソントレーニングを積んだ健常男性10名を対象に、ベースライン計測→11.5マイル(約18.5km)のランニング→再計測という二相デザインで、圧力痛覚閾値・気分評価(POMS:Profile of Mood States)・血漿内分泌レベル(コルチゾール・β-エンドルフィン・黄体形成ホルモン等)を計測しました。試験の核心は、被験者をランダムに二群に分け、一方にはオピオイド受容体の競合的遮断薬であるナロキソン(naloxone、0.8mg静脈投与)を、もう一方にはプラセボを投与し、研究者・被験者双方が割り付けを知らない二重盲検法(double-blind)で比較したことです。
結果は明瞭でした。プラセボ群では運動後に圧力痛覚閾値の有意な上昇が認められましたが、ナロキソン群ではこの上昇が有意に減弱しました。気分評価においても、プラセボ群が運動後に「活力感の増加・疲労感の軽減・多幸感」を報告したのに対し、ナロキソン群では一部の被験者に軽度の不快感が報告されました。Janalら(1984年)はこの結果から「長距離走後のEIHおよびポジティブな気分変化には内因性オピオイド系が関与している」と結論付けており、ヒトにおけるEIHのオピオイド仮説を最初に実験的に支持した研究として今日も広く引用されています。
ただし、この研究にはいくつかの重要な限界があります。第一に、サンプルサイズが10名と極めて小さく、統計的検出力(statistical power)が低い点です。第二に、被験者が選り抜きのマラソントレーナーという特殊な集団であり、一般的な慢性疼痛患者への外挿には慎重を要します。第三に、そして最も示唆に富む発見として、ナロキソン投与によってEIHが完全には消失しなかったという事実があります。すなわちナロキソン抵抗性の「残余鎮痛(naloxone-resistant EIH)」が観察されたのです。この残余鎮痛の存在は、内因性オピオイド系と並行して、オピオイド非依存性の別の鎮痛経路が存在することを示唆するものであり、後の内因性カンナビノイド研究への重要な理論的動機となりました。
この分野が抱えるもう一つの方法論的課題は、β-エンドルフィンの薬理学的特性です。血漿β-エンドルフィン濃度は中〜高強度の有酸素運動によって増加することが多くの研究で確認されていますが、β-エンドルフィンは親水性ペプチドであるため血液脳関門(BBB:Blood-Brain Barrier)を通過しにくいという薬理学的事実があります。このため、末梢血中でのβ-エンドルフィン上昇が直接的に中枢での鎮痛に結びつくという解釈は過単純化である可能性があります。中枢での鎮痛の主役はむしろ、脊髄後角や脳幹でニューロン間シナプスを介して局所放出されるエンケファリン・ダイノルフィンである可能性が高く、これらは末梢血での測定が困難なため、実際の中枢オピオイド活性を非侵襲的に評価する手段が現時点では限られています。この技術的障壁は、EIHのオピオイドメカニズムを完全に解明するうえでの大きな課題として今日も残されています。
図2: 内因性オピオイド系とEIH——Janalら(1984年)実験の概念図
内因性カンナビノイド系:ランナーズハイのもう一つの鍵
Janalら(1984年)が示したナロキソン抵抗性の残余鎮痛は、長らく原因不明のままでしたが、1990年代以降に急速に進展した内因性カンナビノイド(エンドカンナビノイド)研究がその解答の一端を与えています。エンドカンナビノイド系は、アナンダミド(AEA:anandamide)と2-アラキドノイルグリセロール(2-AG:2-arachidonoylglycerol)を主要なリガンドとし、CB1受容体(中枢神経系・末梢神経に発現)とCB2受容体(免疫細胞・脊髄に発現)を介してシグナルを伝達する神経調節システムです。CB1受容体はPAG・辺縁系(扁桃体・海馬)・大脳皮質・脊髄後角に高密度で発現しており、鎮痛・多幸感・情動調節に重要な役割を担っていることが知られています。
運動がエンドカンナビノイド系を活性化するという証拠を、ヒトと他の哺乳類を比較することで提供したのがRaichlenら(2012年、Journal of Experimental Biology)の研究です。この研究では、持続的な走行(cursorial running)が進化的に特化したヒトと犬(cursorial mammals)、および走行に適応していないフェレット(non-cursorial mammal)の三種を比較し、トレッドミル走行前後の血漿エンドカンナビノイド濃度を測定しました。結果、ヒトと犬では走行後に血漿AEA濃度が有意に上昇した一方、フェレットではこのような上昇は認められませんでした。Raichlenらはこの知見から、「走行後のエンドカンナビノイド上昇は、持続的走行に進化的に適応した種に特有の反応であり、ランナーズハイに関与する可能性がある」と論じ、従来オピオイド系のみに帰されていたランナーズハイのメカニズムにエンドカンナビノイド系が不可欠であることを示しました。
この発見の臨床的意味は大きいと言えます。CB1受容体はオピオイド受容体(μ・δ・κ)とは異なる分子であるため、ナロキソンによってブロックされません。これがまさに「ナロキソン抵抗性の残余鎮痛」を生み出す機序の一つと考えられます。また、AEAはオピオイドペプチドとは異なり、脂溶性の低分子であるため血液脳関門を比較的容易に通過できる可能性があり、β-エンドルフィンが抱えるBBB問題を回避できる点でも注目されています。
エンドカンナビノイドによる鎮痛のメカニズムは、CB1受容体を介したシグナルカスケードによって理解されています。AEAや2-AGがCB1受容体に結合すると、Giタンパク質の活性化→アデニル酸シクラーゼの抑制→cAMP低下→Kチャネル開口・電位依存性Caチャネル閉鎖という経路でニューロンの発火が抑制されます。この経路はオピオイド受容体の細胞内シグナルと類似しており、実際にCB1受容体とμ受容体は同一の神経細胞上に共発現していることも多く、両系統の相互作用(クロストーク)が協調的な鎮痛効果を生む可能性も指摘されています。ただし、運動によって誘発されるエンドカンナビノイド上昇の大きさは、運動の種類・強度・時間によって異なり、短時間の低強度運動ではエンドカンナビノイド上昇が認められないこともあるため、最適な「運動処方」については今後の研究が必要です。
図3: 内因性カンナビノイド系とEIH——Raichlenら(2012年)の知見
下行性抑制と条件付き疼痛調整(CPM)との類似性
EIHを理解する上でもう一つ重要な概念が、「条件付き疼痛調整(Conditioned Pain Modulation:CPM)」との比較です。CPMとは、ある部位に侵害性の「条件刺激」(例:冷水に手を浸す「コールドプレッサーテスト」、上腕への強い圧迫など)を加えることで、身体の別の遠隔部位における痛覚閾値が上昇する現象です。この現象はかつて「びまん性侵害抑制(DNIC:Diffuse Noxious Inhibitory Controls)」と呼ばれ、脊髄上部・脳幹レベルで働く下行性疼痛抑制系が、遠隔部位の痛み信号を広域に抑制するという機序で理解されています。
EIHとCPMを直接比較した代表的な研究が、Vaegter、Handberg、Graven-Nielsenら(2014年、Pain)による研究です。この研究では、健常成人32名を対象に、等尺性収縮(壁への押し付け、最大随意収縮の30%強度で2分間)によるEIHと、コールドプレッサーテスト(冷水0〜2℃に手を浸す)によるCPMを、それぞれ別セッションで測定しました。疼痛評価には、上腕への圧力痛覚計測(algometry)を用い、前述の介入前後における圧力痛覚閾値の変化量をEIH量・CPM量としてそれぞれ算出しました。
この研究の最も重要な知見は、EIHの大きさとCPMの大きさが有意な正の相関を示したという点です(r=0.61)。すなわち、条件刺激によって大きな鎮痛を示す人は、運動によっても大きな鎮痛を示す傾向があり、逆に条件刺激への反応が小さい人は運動による鎮痛も小さい傾向がありました。Vaegterらはこの相関を、「EIHとCPMは異なる刺激(運動vs侵害性条件刺激)を入力として使うが、最終的には同一の下行性疼痛抑制系を活性化することでEIHを生み出している」という仮説の支持として解釈しました。
この知見が持つ臨床的意味は非常に大きいと言えます。CPMの機能が低下している患者——これは慢性疼痛患者の一部に見られることが複数の研究で示されています——は、EIHも同様に低下している可能性があります。つまり、慢性疼痛患者が「運動しても痛みが楽にならない」と訴える場合、それは単なる「努力不足」ではなく、下行性疼痛抑制系そのものの機能低下が関与している可能性を示唆しているのです。これは「もっと動けば良くなる」という一律のアドバイスが、一部の慢性疼痛患者では逆効果になり得る理由の神経生物学的根拠となります。
ただし、Vaegterらの研究(2014年)にも限界があります。サンプルが健常成人に限定されており、慢性疼痛患者を対象とした同様の検討では異なる結果が得られる可能性があります。また、EIHとCPMの相関は統計的に有意であっても中程度(r=0.61)にとどまり、両者が完全に同一のメカニズムによって駆動されているとは言いきれない点も重要です。これらの限界を踏まえると、EIH-CPM仮説は臨床的に有益な枠組みではありますが、あくまで仮説段階にとどまり、さらなる検証が必要です。
図4: EIHとCPMの比較——異なる入力、共通の下行性抑制系(Vaegterら、2014年)
運動の種類・強度・慢性疼痛患者への影響:メタ解析が示すもの
個別の研究知見を俯瞰したとき、EIHの効果は運動の種類・強度・対象集団によって大きく異なります。この問いに体系的な答えを与えたのが、Naugle、Fillingim、Rileyら(2012年、Journal of Pain)による大規模メタ解析「A meta-analytic review of the hypoalgesic effects of exercise」です。この研究では1966〜2011年に公表された実験的EIH研究を系統的に検索し、有効な96件の研究を対象として効果量(effect size)の統合解析を行いました。
Naugleらのメタ解析(2012年)の主な知見は以下のとおりです。第一に、有酸素運動(aerobic exercise)は、熱刺激・電気刺激・圧力刺激を問わず、一貫して中〜大程度の鎮痛効果を示し、その効果量は平均してCohen's d=0.60〜0.80の範囲にありました。第二に、等尺性収縮(isometric exercise)も同程度の効果量を示しましたが、対象とする研究数が少なく統計的検出力が限られていました。第三に、運動強度はEIH効果に対して用量反応的な正の関係を示し、中強度(50〜70%HRmax)から高強度(75%HRmax以上)の運動でより大きな鎮痛が得られる傾向が確認されました。
特に注目すべきは、健常成人と慢性疼痛患者の間で顕著な差異が認められた点です。Naugleらの分析では、慢性疼痛患者群(変形性関節症・線維筋痛症・慢性腰痛等)では有酸素運動後のEIHが健常成人に比較して有意に減弱しており、一部の患者では逆に痛覚過敏(運動後に痛みが増強する)が観察されました。この「EIHの逆転」と呼びうる現象は、単なる信号伝達の鈍化ではなく、下行性疼痛促進系(pain facilitatory system)が優位に働いている状態——中枢感作(central sensitization)の文脈で理解されています。
運動の種類による差異も示されています。動的な有酸素運動(ウォーキング・サイクリング等)は特に熱刺激痛覚閾値を高める効果が強い一方、筋力トレーニングは圧力痛覚閾値への影響がより顕著であるという傾向が観察されました。これは、使用される筋肉や関節からの機械的・代謝的求心性信号の違い、あるいは活性化される神経化学的経路の差異を反映している可能性があります。ただし、各研究間での運動プロトコルの不均一性(強度・時間・測定タイミング・使用する痛み指標の違い)がメタ解析の解釈を複雑にしており、Naugleらも「研究間の異質性(heterogeneity)が高い」ことを重要な限界として挙げています。
もう一つの重要な知見は、測定部位と運動部位の関係です。Naugleらの分析では、運動に直接使用した筋肉部位と遠隔部位(使用していない部位)のいずれにおいても鎮痛効果が認められましたが、遠隔部位への効果がより一貫していたという傾向も示されています。これはKoltyn(2000年)が強調した「全身性」をさらに量的に支持する知見であり、EIHのメカニズムが末梢局所的ではなく中枢性であることを改めて確認するものです。
図5: 運動種類・強度別のEIH効果量(Naugleら、2012年メタ解析より概略)
慢性疼痛患者でEIHが逆転するメカニズム
健常成人と慢性疼痛患者の間に見られるEIH反応の差異は、単なる「痛みへの過敏性」では説明できない深いメカニズムを反映しています。慢性疼痛患者の多くでは、下行性疼痛抑制系の効率が低下している一方で、下行性疼痛促進系(descending pain facilitation)が亢進しているという「疼痛制御の不均衡」が生じているとされています。
Naugleらのメタ解析(2012年)が示したように、線維筋痛症・慢性腰痛・変形性関節症の患者においては、有酸素運動後に期待されるEIHが有意に減弱しており、一部では運動後の一時的な疼痛増強も記録されています。この現象は「中枢感作(central sensitization)」の文脈で理解されています。中枢感作とは、脊髄後角や脳幹レベルで侵害性信号の処理が過剰に増幅される状態であり、通常は鎮痛的に機能するはずの運動刺激も、感作した神経系においては「危険信号」として過剰に処理される可能性があります。
さらに、慢性疼痛患者においてCPMが低下していることも複数の研究で示されており(Vaegterら、2014年が示したEIH-CPM相関に照らせば)、EIHの低下はCPM機能低下の反映である可能性があります。言い換えれば、下行性疼痛抑制系の全般的な機能不全が、EIH・CPM双方の効果を同時に減弱させていると解釈できます。
これは治療家にとって重要な示唆を含んでいます。慢性疼痛患者に対して「運動してください、良くなりますよ」と一律に指導する前に、その患者の下行性抑制機能がどの程度維持されているかを評価し、初期の運動強度を慎重に設定する必要があることが、これらの研究から浮かび上がってきます。低強度から始めて徐々に強度を上げながら患者の反応を観察するという「漸増型運動処方」の重要性は、このような神経科学的根拠からも支持されています。
図6: EIH反応の個人差——健常成人と慢性疼痛患者の比較
臨床への示唆——「動かす」処方を科学的に語るために
ここまで見てきた研究知見を統合すると、臨床家として「なぜ運動が痛みに効くのか」という問いに、少なくとも次の三つの軸で答えることができます。
第一の軸:内因性オピオイド系の活性化。 中〜高強度の有酸素運動は、脳幹・脊髄でのエンケファリン・ダイノルフィンの局所放出を促し、μ・δ受容体を介した下行性疼痛抑制系を活性化します。この経路はナロキソンで一部ブロックされるため、オピオイド性の鎮痛であることが確認されています(Janal et al., 1984)。ただし、血漿β-エンドルフィンが直接中枢に届くわけではなく、中枢での局所オピオイド放出こそが主役であるという点は、患者への説明でも「脳内で天然の鎮痛物質が作られる」という言い方が的確です。
第二の軸:内因性カンナビノイド系の活性化。 特に持続的な有酸素運動は血漿AEA(アナンダミド)を増加させ、CB1受容体を介した鎮痛・多幸感を引き起こします(Raichlen et al., 2012)。この経路はナロキソンでは遮断されないため、オピオイド系とは独立した「もう一本の鎮痛軌道」として機能します。慢性疼痛患者の中には、オピオイド系の反応が鈍化していてもカンナビノイド系は比較的保たれているケースがある可能性があり、その場合は持続的有酸素運動が特に有益となるかもしれません(ただしこの点は今後の研究が必要です)。
第三の軸:下行性疼痛抑制系の全般的強化。 EIHとCPMが同一の下行性抑制系を共有するという知見(Vaegter et al., 2014)は、「継続的な運動によって下行性抑制系そのものを鍛えることができる」という仮説を生み出しています。実際に、定期的な有酸素運動トレーニングによってCPM効率が向上したとする報告も存在し、慢性疼痛管理における運動の「中期・長期的効果」は単発のEIHを超えた神経可塑的変化として期待されています。
実践的な運動処方の視点からは、Naugleらのメタ解析(2012年)が示した知見は次のように整理できます。健常成人では、中〜高強度(60〜80%HRmax)の有酸素運動を20〜30分行うことで、比較的安定したEIHが期待できます。一方、慢性疼痛患者では、まず痛みが増強しない強度を見極めることが最優先であり、低強度のウォーキングや水中運動から始め、患者の疼痛・疲労反応を観察しながら週単位で漸増するアプローチが推奨されます。治療家として重要なのは、「初回の運動でEIHが出なかった=効果がない」と結論しないことです。中枢感作が進んでいる患者では、複数週の規則的な低強度運動を経てから初めてEIHが発現し始める可能性があります。
「動かすことは痛みを増やす」という恐怖回避(fear-avoidance)のモデルが患者の中に根付いている場合、EIHのメカニズムを平易に説明することが、運動療法へのアドヒアランスを高めるための重要な介入手段となります。「あなたの脳と脊髄には、運動によって活性化される天然の鎮痛システムがあります。最初は少し痛むかもしれませんが、それはそのシステムを使い始めたサインです」という説明は、この分野の科学的知見に根ざした、信頼性の高い患者教育の一形態と言えるでしょう。
まとめ
運動誘発性鎮痛(EIH)は、有酸素運動・等尺性収縮などの身体活動によって、内因性オピオイド系・内因性カンナビノイド系・下行性疼痛抑制系の少なくとも三つの神経化学的回路が活性化されることで生じる、生物学的に精緻な現象です。Koltyn(2000年)はEIHの全身性と強度依存性を記念碑的に整理し、Janalら(1984年)はナロキソン実験によってオピオイド仮説に初めての直接的証拠を与えました。Raichlenら(2012年)は種間比較によってエンドカンナビノイド系の関与を示し、Vaegterら(2014年)はEIHとCPMが同一の下行性抑制系を共有することを示しました。そしてNaugleらのメタ解析(2012年)は、健常成人では有酸素運動が一貫したEIHをもたらす一方、慢性疼痛患者ではこの効果が著しく減弱することを定量的に示しました。
これら一連の知見が示すのは、「運動は薬だ(Exercise is medicine)」という標語が単なるスローガンではなく、内因性鎮痛回路の活性化という具体的な神経科学的メカニズムに支えられているという事実です。そして同時に、「どの患者に、どの強度の運動を、どのタイミングで処方するか」という問いには、中枢感作の程度や下行性抑制機能の評価を含む個別化されたアプローチが不可欠であることも示しています。治療家がEIHの科学を理解することは、より質の高い運動処方と患者教育の実践につながる、臨床的に価値ある知識基盤です。
参考文献
- Koltyn KF (2000). Exercise-induced hypoalgesia and intensity of exercise. Sports Medicine, 30(3):149–168.
- Janal MN, Colt EW, Clark WC, Glusman M (1984). Pain sensitivity, mood and plasma endocrine levels in man following long-distance running: effects of naloxone. Pain, 19(1):13–25.
- Raichlen DA, Foster AD, Gerdeman GL, Seillier A, Bhavit A (2012). Wired to run: exercise-induced endocannabinoid signaling in humans and cursorial mammals with implications for the 'runner's high'. Journal of Experimental Biology, 215(Pt 8):1331–1336.
- Vaegter HB, Handberg G, Graven-Nielsen T (2014). Similarities between exercise-induced hypoalgesia and conditioned pain modulation in humans. Pain, 155(1):158–167.
- Naugle KM, Fillingim RB, Riley JL 3rd (2012). A meta-analytic review of the hypoalgesic effects of exercise. Journal of Pain, 13(12):1139–1150.