スマートウォッチやウェアラブルデバイスの普及により、「HRVが低いので自律神経が乱れています」と話す患者が診察室に現れるようになりました。一方で、治療家の側からは「HRVをどこまで信頼してよいのか」「測定値に振り回されないためには何を知っておくべきか」という声が増えています。心拍変動(Heart Rate Variability; HRV)は、自律神経機能を非侵襲的に評価できる数少ない指標として、循環器科から疼痛管理・リハビリテーション医学まで幅広い領域で注目されてきました。しかし、その臨床的意義は指標の種類・測定条件・対象集団によって大きく異なり、単純な「HRV=自律神経の健康度」という図式には収まらない複雑さがあります。本稿では、HRVの基礎から最新の臨床的エビデンス、そして測定・解釈における限界まで、実在する研究をもとに体系的に整理します。
HRVとは何か:拍動間隔に刻まれた自律神経の情報
R-R間隔の揺らぎが生み出す生体情報
心臓は一定のペースで拍動しているように見えますが、連続する拍動の間隔(R-R間隔、あるいはNN間隔)は実際には一定ではなく、呼吸・姿勢・精神的負荷・温度変化などに応じて絶え間なく変動しています。この変動の大きさや特性を定量化したものが心拍変動(HRV)です。
HRVが自律神経評価に用いられる理由は、その変動パターンが洞房結節への交感神経・副交感神経の入力を反映するからです。副交感神経(迷走神経)の活動が高まると洞房結節の発火頻度が低下して心拍数が下がり、R-R間隔のゆらぎが大きくなります。一方、交感神経の活動が優位になると応答速度が遅く(数秒〜数十秒のタイムスケール)、比較的低周波の変動として現れます。この神経生理学的背景は1996年に欧州心臓病学会と北米ペーシング・電気生理学会の合同タスクフォースがまとめた標準文書(Task Force, 1996, Circulation)によって国際的に整理され、以来30年にわたる研究の礎となっています。
迷走神経と「トーン」の概念
HRVの研究で繰り返し登場するのが「迷走神経トーン(vagal tone)」という概念です。これは安静時の副交感神経出力の基礎水準を指し、高いほど心血管リスクが低い・心理的柔軟性が高い・炎症応答の調節能力が高い、といった知見と関連づけられてきました。ただし「トーン」は直接測定できる量ではなく、あくまでHRVの特定指標から推測される生理的構成概念です。この「推測」というステップに多くの臨床的落とし穴が潜んでいます(詳細は後述)。
図1: 自律神経活動とR-R間隔変動の関係。副交感神経(迷走神経)は高周波のゆらぎを生み出しHRVを高め、交感神経・迷走神経抑制はHRVを低下させる。
HRVの主要指標:時間領域・周波数領域・非線形解析
三つのアプローチが映し出す異なる側面
Task Force(1996年)が標準化した以降、HRV指標は大きく時間領域、周波数領域、非線形解析の三系統に整理されています。Shaffer & Ginsberg(2017年、Frontiers in Public Health)は各指標の規範値と測定要件についての包括的レビューを発表しており、臨床現場での指標選択に際して参照すべき重要な文献です。
時間領域指標は最も計算が単純で、個々のR-R間隔の統計量から算出されます。代表的なものとして、記録全体のR-R間隔の標準偏差であるSDNN(standard deviation of normal-to-normal intervals)と、連続するR-R間隔差の二乗平均平方根であるRMSSDがあります。SDNNは交感・副交感双方の総合的変動を反映し、5分間記録では概ね全体的な自律神経機能の指標として扱われます。一方RMSSDは隣接するR-R間の変化を捉えるため、主に副交感神経(迷走神経)活動の短期的指標として広く用いられています。またpNN50(連続するNN間隔の差が50msを超える割合)もRMSSDと同様の生理的情報を持ちますが、個人差・年齢依存性が大きく、単独での解釈には注意が必要です。
周波数領域指標は、R-R間隔の時系列を周波数成分に分解することで、異なる生理的メカニズムが寄与する帯域を区別しようとするアプローチです。一般的に**HF成分(高周波、0.15–0.40 Hz)**は呼吸に同期した副交感神経活動(呼吸性洞性不整脈)を反映するとされ、最も確立された生理的解釈を持ちます。**LF成分(低周波、0.04–0.15 Hz)**については、かつては「交感神経活動の指標」として解釈されることが多くありましたが、Task Force(1996年)も記述しているように、実際には交感神経と副交感神経の両方が寄与しており、単純に「交感神経活動=LF」とする解釈は現在では支持されていません。LF/HF比も広く報告されますが、その解釈はさらに複雑です。
非線形解析指標(ポアンカレプロット、サンプルエントロピー、DFAなど)は、R-R間隔の時系列が持つ複雑さや長距離相関を捉えます。これらは時間域・周波数域指標では見えにくい、より包括的な心臓リズムの調節特性を反映すると考えられていますが、臨床的規範値の確立が遅れており、日常臨床での応用はまだ発展途上です。
図2: HRV指標の三系統と主な生理的意味。各指標が反映する生理的プロセスは異なり、単一の指標で「自律神経の健康度」を語ることは困難。
測定時間が指標の意味を変える
Task Force(1996年)が特に強調した点のひとつが、測定時間によって指標の意味が根本的に変わるという問題です。SDNNを例に取ると、5分間のショートタイム記録から算出されたSDNNと、24時間ホルター心電図から算出されたSDNNでは、反映する生理的プロセスが全く異なります。24時間SDNNは睡眠・覚醒リズム、体位変換、食事など多様な交感・副交感活動のサイクルを捉えますが、5分間SDNNは主に呼吸性の副交感変動を反映します。同じ指標名であっても、測定時間が異なれば比較に意味はありません。
市販のウェアラブルデバイスが提示する「HRVスコア」の多くは、夜間睡眠中の数分〜数十分の記録から算出されており、フルホルター心電図とは直接比較できません。患者が持参するウェアラブルデータを解釈する際には、この「測定プロトコルの不均質性」を常に念頭に置く必要があります。
低HRVが持つ臨床的意義:心血管リスクと神経内臓統合モデル
Kleiger(1987年)の先駆的研究
HRVが臨床的予後予測に利用できるという認識を初めて大規模に示したのが、Kleigerら(1987年、American Journal of Cardiology)による急性心筋梗塞後患者の前向きコホート研究です。この研究では急性心筋梗塞後808例を24時間ホルター心電図で評価し、追跡期間31か月間の全死亡率を検討しました。対象患者の心筋梗塞後11±3日の時点でホルター心電図を記録し、そこから算出したSDNNによって患者を複数の四分位グループに層別化しています。
結果として、SDNNが50ms未満の患者群では、50ms以上の群と比較して死亡リスクが約5.3倍高いことが示されました。この関連は年齢・左室機能(駆出率)・心不全の有無などの交絡因子を調整した多変量解析においても独立して有意であることが確認されています。さらに重要なのは、HRV低下と予後悪化の関連がQT延長や不整脈の直接的な指標とは独立していた点であり、HRVが「心臓自律神経制御の失調」という、既存のリスク指標とは異なる側面を捉えていることを示唆しました。この研究が示したのは、HRVが単なる生理学的指標にとどまらず、実際の臨床転帰を予測する独立したバイオマーカーとなりうるということです。
ただし、この知見を現代の臨床に外挿する際にはいくつかの注意点があります。第一に、Kleigerらの研究は急性心筋梗塞という特定の高リスク集団を対象としており、一般健常者や慢性疼痛患者に直接適用できるものではありません。第二に、この時代の解析は現在の非線形指標などを含まない比較的シンプルな時間領域解析であり、今日の複合的HRV評価とは異なります。第三に、SDNNの絶対値は年齢・性別・フィットネスレベルで大きく異なるため、カットオフ値の普遍的適用には根拠がありません。特に、Kleigerら(1987年)が使用した「SDNNの50ms」というカットオフは、1980年代の急性心筋梗塞後患者のコホートにおいて統計的に導出されたものであり、異なる集団・異なる測定機器・異なる解析ソフトウェアに直接転用できる絶対値ではないことを、臨床家は理解しておく必要があります。
Thayerらの神経内臓統合モデル
HRVの臨床的意義を心血管系を超えて拡張する理論的枠組みとして影響力を持つのが、ThayerとLane(2009年、Neuroscience & Biobehavioral Reviews)が提唱した神経内臓統合モデル(neurovisceral integration model)です。このモデルは、心臓の迷走神経制御、脳前頭前野の実行機能、そして感情・ストレス調節が同一の神経回路網(前頭前野―扁桃体―迷走神経ループ)によって統合的に制御されているとする枠組みです。
Thayerら(2010年、International Journal of Cardiology)は、HRVの低下が単に心血管リスクに留まらず、認知的柔軟性の低下、感情調節困難、免疫応答の過剰・不全、そして慢性疼痛の維持メカニズムとも関連しうると論じました。この視点は、慢性疼痛や機能性疾患を抱える患者において「自律神経の評価」が単なるオプション項目ではなく、病態理解の核心に触れる可能性を示唆するものです。
図3: 神経内臓統合モデルの概念図(Thayer & Lane, 2009をもとに作成)。前頭前野・扁桃体・迷走神経核・心臓が双方向的に連結され、HRVはその統合的機能の「窓」として機能する。
慢性疼痛とHRVの関係
神経内臓統合モデルの観点から注目されるのが、慢性疼痛患者においてHRVが健常者と比較して低下する傾向を示す研究の蓄積です。Thayerら(2010年)のレビューは、線維筋痛症・複合性局所疼痛症候群・慢性腰痛といった慢性疼痛状態において、安静時HRVが全般的に低下する傾向があると整理しています。ただし、これが因果関係を意味するのか、それとも慢性疼痛の共通の背景因子(睡眠障害・うつ・身体活動低下・薬物療法など)に続発するものなのかは、観察研究だけからは判断できません。
重要なのは、「HRVが低いから慢性疼痛が維持される」という一方向的な解釈ではなく、「慢性疼痛と自律神経調節不全は相互に影響しあうループを形成している可能性がある」という双方向的な視座です。この視点は、慢性疼痛の治療において自律神経調節を切り口として介入することを正当化する理論的背景となっており、後述するHRVバイオフィードバックへの関心を高める根拠のひとつになっています。
HRV測定の落とし穴:技術的・生理的コンファウンダー
「測定値」は条件の産物である
HRVの臨床応用を困難にする最大の要因のひとつが、測定値が無数のコンファウンダーの影響を受けることです。Task Force(1996年)は当初からこの問題を認識しており、「HRVの研究・臨床応用において測定プロトコルの標準化は不可欠」と強調しました。しかし30年後の今日においても、この標準化が徹底されている施設はむしろ少数派です。
Shaffer & Ginsberg(2017年)は、HRVに影響を与える主な生理的・環境的因子として以下を列挙しています。
体位の影響は特に大きく、仰臥位・座位・立位では迷走神経トーンが大きく異なります。一般に立位では重力によって静脈還流が低下し圧受容体反射が活性化するため、HFパワーが低下し、LF/HF比が上昇します。同一被験者の座位HRVと立位HRVは直接比較できません。ウェアラブルデバイスによる「オフィスでの座位測定」と「帰宅後のソファでの臥位測定」を同一線上で語ることには根本的な問題があります。
呼吸の影響はHF成分に直結します。HF成分は呼吸周波数(0.15–0.40 Hz)に同期して生じますが、安静時呼吸は個人差・コンディションによって変動します。特に「ゆっくり呼吸してください」という指示を与えると呼吸周波数がLF帯域(0.04–0.15 Hz)に入り込み、LFとHFの境界が曖昧になります。呼吸数を記録せずにHF・LF成分を解釈することは、誤解を招くリスクがあります。
年齢の影響は無視できないほど大きく、RMSSDは加齢とともに低下します。30代と60代の「同じRMSSD値」が同じ意味を持つとは限りません。Shaffer & Ginsberg(2017年)が提示している年齢・性別別の規範値を参照することなく個人のHRVを絶対値で評価することは、根拠のある臨床判断とは言えません。
薬物の影響も甚大です。β遮断薬は交感神経遮断によってHRVに大きな影響を与えます。コリン作動薬・抗コリン薬・一部の抗うつ薬・α刺激薬なども自律神経バランスを変化させます。慢性疼痛患者では複数薬剤の使用も多く、「素の自律神経状態」を測定することはしばしば困難です。
図4: HRV測定値に影響する主なコンファウンダー。測定値を解釈する際は、プロトコル・体位・薬物・個人属性などの文脈を常に確認する必要がある。
センサーの問題:PPGとECGの差
市販ウェアラブルの多くは光学式容積脈波(PPG: photoplethysmography)で脈波を計測し、そこからHRVを推定します。これに対し、研究・医療のゴールドスタンダードはECG(心電図)から直接R-R間隔を測定することです。Task Force(1996年)の基準はECG計測を前提として策定されており、PPGベースの値との互換性は完全ではありません。
PPGは体動アーチファクトに弱く、運動中・直後の計測には大きな誤差が生じます。また、末梢血流量の変動(冷え・高血圧・末梢動脈疾患)がPPGの精度に影響します。スマートウォッチが提示する「HRVスコア」は、これらの限界を内包した上での推定値であることを、患者に正確に伝えることが治療家の重要な役割です。
LF/HF比という指標の信頼性問題
LF/HF比は「交感神経活動 / 副交感神経活動」の代理指標として1990年代から広く用いられてきましたが、Task Force(1996年)自身も、LF成分が純粋な交感神経活動の指標ではないと明記しています。Shaffer & Ginsberg(2017年)はさらに踏み込んで、LF成分は圧受容体反射・副交感神経・交感神経のすべてが寄与する混合成分であり、LF/HF比を「交感/副交感バランス」と解釈することには根拠が乏しいと指摘しています。
特に問題なのは、同じ被験者でも呼吸数・体位・精神的負荷が変わるだけでLF/HF比が大きく変動することです。安静時のLF/HF比の解釈でさえこれほど不安定なのに、「ストレス状態でLF/HF比が上がった」という結論を単純に引き出すことは、過大な解釈です。研究コミュニティの中ではLF/HF比の「交感神経指標」としての使用を見直す動きが進んでおり、臨床家もこの議論の動向を把握しておくことが求められます。
HRVバイオフィードバックの可能性と限界
共鳴周波数呼吸とHRVバイオフィードバック
HRVの臨床介入として最も研究が進んでいるのがHRVバイオフィードバック(HRV biofeedback)、特に「共鳴周波数呼吸(resonance frequency breathing)」に基づく方法です。一般に毎分5〜7回(約0.1 Hz)のゆっくりとした腹式呼吸を行うと、圧受容体バロ反射によって心拍変動のLF成分が最大化され、特徴的な「コヒーレンス」状態が生じます。これをリアルタイムフィードバックで訓練するのがHRVバイオフィードバックです。
「共鳴周波数」は個人によって0.09〜0.12 Hzの範囲でばらつきがあり、厳密なプロトコルではまず個々の共鳴周波数を測定してから訓練を行います。しかし市販のHRVバイオフィードバックアプリやデバイスの多くは個人最適化なしに「0.1 Hzで呼吸してください」という一律の指示を与えており、これが研究グレードのプロトコルとの乖離の一因になっています。また、腹式呼吸のフォームや、生体信号フィードバックの表示方法(グラフ・音・ゲームなど)によっても訓練効果が異なる可能性があり、プロトコルの均質化は今後の研究課題のひとつです。
Laborde S, Mosley E, Thayer JF.(2017年、Frontiers in Psychology)は、HRVバイオフィードバックの研究報告をレビューし、不安・うつ症状・ストレス関連疾患においていくつかのランダム化比較試験(RCT)が一定の有効性を示していると整理しています。特に高血圧・PTSD・不安障害を対象とした研究では、コントロール条件と比較してHRV指標の改善および自覚症状の軽減が報告されています。とりわけ、HRVバイオフィードバックを標準的な薬物療法の補助として用いた高血圧の研究では、収縮期血圧の軽度低下が複数の小規模RCTで報告されており、この領域では比較的一貫した知見が得られつつあります。
ただし、Laborde ら(2017年)は同時に、この分野における方法論的課題も率直に指摘しています。まず、研究間での「共鳴周波数」の定め方やフィードバックプロトコルが一致しておらず、結果の統合が困難です。次に、サンプルサイズが小さい研究が多く、バイアスリスクが高い。さらに、「HRVが上がった」という指標の変化が実際の臨床転帰(症状・機能・QOL)の改善と必ずしも対応しない場合があることも認識されています。
図5: HRVバイオフィードバックのメカニズムと研究の現状。一定のエビデンスが積み上がっている領域と、方法論的課題が残る領域を区別して理解することが重要。
「HRVを上げる」ことは治療目標になりうるか
HRVバイオフィードバックの議論で注意しなければならないのは、「HRVを高めることそのもの」が治療目標として適切かどうかという根本的な問いです。HRVはあくまで生理的プロセスの代理指標であり、指標の数値を上げることが直接的に患者の健康アウトカムを改善するわけではありません。たとえば、呼吸訓練によって測定時のHRVが上昇したとしても、それが安静時の基礎的な迷走神経トーンの向上を意味するのか、測定条件への順応を意味するのかは判別困難です。
Laborde ら(2017年)はこの問題を「指標の変化とメカニズムの変化を混同してはならない」と表現しています。HRVバイオフィードバックが有効であるとすれば、それは「HRVを高める」という機序ではなく、深呼吸・弛緩反応・注意集中・コーピングスキルの習得といった複合的なプロセスを通じた効果である可能性が高いとも述べています。この認識は、治療家が患者にHRVバイオフィードバックを推奨する際の説明に重要な含意を持ちます。
臨床への示唆:HRVを「使える知識」として整理する
何に使えて、何には使えないか
ここまでの議論を整理すると、HRVが臨床的に提供できる情報と、提供できない情報の境界がより鮮明になります。
HRVが臨床的な「文脈情報」として機能しうる場面があります。たとえば、慢性疼痛患者の長期経過においてHRV(特にRMSSD)を縦断的に追跡した場合、同一人物の相対的変化として傾向を把握することができます。「先月より安静時RMSSDが改善傾向にある」という観察は、患者の自律神経調節機能が変化している可能性を示す補助的情報となりえます。ただしこれはあくまで「傾向の補助情報」であり、単一時点の絶対値を他者と比較したり、HRVの変化だけから病態を診断したりすることには根拠がありません。
また、介入(運動療法・呼吸法・リラクセーション技法)の前後比較として、同一プロトコル・同一体位・同一時間帯での定期測定を行うことで、介入効果の一側面を客観化する試みは研究・臨床双方で行われています。Kleiger ら(1987年)が示した心筋梗塞後のHRV低下と予後の関連に象徴されるように、HRVが低い患者群では全身的なリスク管理の視点を強化することが重要です。
HRVで判断することが困難な領域としては、横断的な単一測定からの「自律神経の健康度」診断、ウェアラブルの日常値から病態を推定すること、LF/HF比から交感/副交感バランスを直接読むこと、などが挙げられます。
患者からウェアラブルデータを提示された場合の対応
現代の治療家が直面する実践的課題のひとつが、患者がスマートウォッチやHRVモニタリングアプリのデータを持参するケースです。この場面での適切な対応は、データの全否定でも過信でもなく、「条件の確認と文脈の共有」です。
具体的には以下の点を確認することが有益です。(1)どのような条件(体位・時間帯・測定時間)で計測されたのか。(2)過去と比較した場合の傾向として見ているのか、それとも他者との比較なのか。(3)薬物・睡眠・運動などの背景因子は一定だったか。これらを確認した上で、「継続して同条件で測ることで傾向は見えてきます」「単一の数値よりも、自分の調子との相関を見ていきましょう」といった形で患者の自己観察を支援することが、現時点での最も誠実な臨床的対応と言えます。
図6: HRVデータを臨床で活用する際の判断フロー。測定条件の確認が解釈の前提となり、縦断的比較と横断的比較を分けて考えることが重要。
運動介入とHRV:エビデンスと臨床的含意
リハビリテーション・身体療法の観点から注目される知見として、有酸素運動の継続がHRVを改善するというエビデンスの蓄積があります。Thayerら(2010年)は、身体フィットネスレベルが高い集団では安静時RMSSDが有意に高い傾向があると複数の研究をまとめており、これは迷走神経トーンの向上を反映する可能性があると述べています。また、心筋梗塞後のリハビリテーションプログラムにおいて、段階的な有酸素運動訓練がHRV指標を改善するとの報告も蓄積されており、Kleiger ら(1987年)が示した「低HRVと予後悪化の関連」を踏まえると、HRVを心臓リハビリテーションの効果指標のひとつとして追跡することには一定の理論的根拠があります。
ただし、運動とHRVの研究においても測定の問題は残ります。運動直後は交感神経活動が亢進しHRVが著しく低下するため、運動後の十分な回復時間(通常24〜48時間)をおいた安静時測定が不可欠です。「今日は運動をしたからHRVが低い」という日常的な変動と、「慢性的な自律神経調節機能の低下」を区別するためには、少なくとも1〜2週間の縦断的データが必要です。単一測定値から「運動が効いていない」「自律神経が悪化している」と判断することは、このコンテキストでも誤りを招く可能性があります。
また、痛みそのものがHRVを低下させることも注目すべき点です。急性疼痛・慢性疼痛ともに交感神経を活性化し迷走神経活動を抑制する方向に作用するため、疼痛を抱える患者のHRV測定値は「純粋な自律神経機能状態」ではなく「疼痛状態を含む複合的な生理状態」を反映しています。運動療法によってHRVが改善したとすれば、それは「自律神経機能そのものの改善」なのか「疼痛軽減を介した間接的効果」なのか、現時点の研究手法では区別が困難です。この不確実性を理解した上で、HRVを運動療法の効果指標の「補助情報のひとつ」として位置づけることが適切です。
治療家が知っておくべき「HRVの限界のリテラシー」
HRVが「自律神経の唯一の窓口」ではないことを認識することも重要です。心臓の迷走神経支配は自律神経系の一側面に過ぎず、皮膚電気反応(EDA)・瞳孔径変動・唾液アミラーゼ・コルチゾール・体温調節応答など、他にも自律神経機能を反映するバイオマーカーは複数存在します。これらは互いに中程度の相関しか持たない場合があり、HRV単独で「自律神経の全体状態」を把握できるとする解釈は正確ではありません。
また、HRVの研究の多くは安静時の安定した測定条件を前提としており、臨床的に関心の高い「動的な自律神経応答能力」(ストレスへの反応性・回復性)をHRVで評価する方法論は、安静時HRVに比べてまだ確立されていません。「安静時のRMSSDが高い人がストレス状況での回復も早い」という解釈は理論的には支持されますが、個人レベルでの予測精度はまだ研究途上の段階にあります。
まとめ
心拍変動(HRV)は、非侵襲的に自律神経機能を評価できる希少な生理的指標として30年以上の研究蓄積があります。Task Force(1996年)が確立した測定標準、Kleiger ら(1987年)が示した心血管予後との関連、Thayer & Lane(2009年)の神経内臓統合モデル、そしてLaborde ら(2017年)が整理したHRVバイオフィードバックの現状は、この分野の臨床的活用の根拠を形成しています。
一方で、HRVの測定値は体位・呼吸・年齢・薬物・センサー種類によって大きく変動し、単純な「自律神経健康度スコア」として扱うことには本質的な限界があります。LF/HF比の解釈は現在も議論中であり、ウェアラブルが提示するHRVスコアをECGベースの研究知見と直接対応させることも慎重であるべきです。
臨床家にとってのHRVは、病態を確定診断するツールではなく、「患者の自律神経調節の傾向を縦断的に追いかけるための参考情報」として位置づけることが最も適切です。スマートウォッチ時代の今、HRVリテラシーを持つ治療家の役割は、数値の過信でも過小評価でもなく、測定条件を踏まえた適切な解釈を患者と共有することにあります。
参考文献
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